主題
- #真の平安
- #仕事と霊性
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- #イエス様
作成: 2025-05-12
作成: 2025-05-12 08:17
「イエス様の福音から離れれば、隣人を助けたり、仕事をうまくこなすことからくる喜びを享受するためではなく、出世して名声を得ようとする思いで、苦労を重ねざるを得なくなる。」(本138-139ページ)
この内容のように、イエス様の福音から離れては、真の喜びを享受することはできない。結局、私たちが苦労し努力する理由は、イエス・キリストの福音のためである。それこそが私たちに真の平安を与えることができる。
このような認識がないまま、仕事をすることになると、結局自分のためだけに働くことになる。そうなると、真の喜びはない。人は神から与えられたタレントを活用し、自分が得意なことを選び、隣人を助け、彼らに有益なことをすることが、聖書的世界観に合致する。
例えば、人が非常に有名になったからといって平安であると言えるだろうか?断言するが、そうではない。どんなに有名でも、お金がたくさんあっても、心配事は尽きない。どうすればもっと有名になれるのか、この名声を維持できるのか、もっとお金を稼げるのかなどを悩むのが人間である。人間の内面でそれを望むこともあり、社会環境がそれを煽ることもある。
よくある例として、莫大な富を築いた経営者や有名な芸能人が自殺するケースがある。心が痛む。彼らに真の平安があったなら、そしてそれを悟って享受できたなら、そのような悲しい出来事は起こらなかったかもしれない。
クリスチャンの会社員の心にイエス様がいなければ、空っぽの殻に過ぎない労働になってしまう。私自身も非常に有名になりたいし、たくさんお金を稼ぎたい。例えば、LinkedInで有名になりたい。それで、あんなことやこんな講演にも出て、かっこいい話をしてお金をもらって、そうやって暮らしたい。しかし、それが私にとって大きな有益ではないということを、今日も心に語りかける。
他の人のように有名にならなくても、自分がいる場所で誠実に、隣人を愛しながら進んでいけば、それによって受ける平安がもっと大きいだろう。「低くする者は高くされ、高くする者は低くされる」という御言葉のように、神のためにそのような心で働いてきたなら、いつかは高くされるかもしれない。必ずそれを望んで行うものであってはならない。期待が大きければ失望も大きいもの。黙々と進むべき道を歩んだときに、初めて大きく用いられる時が来るかもしれず、その時にも謙虚に神に栄光をささげることができなければならないだろう。
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